過去の演目

第16回 野守(のもり) 黒頭(文化会館)

あらすじ

出羽国(山形県)の羽黒山からやってきた山伏が、大峰葛城山へ参る途中、大和国(奈良県)春日の里に着きます。そして誰か人がいたらこのあたりの名所について聞きたいものだと思っていると、ちょうどひとりの老人がやってきました。 そこで、近くにあったいわれのありそうな池について尋ねてみました。すると老人は、「私のような野守が姿を写すので"野守の鏡"といっているが、本当の"野守の鏡"というのは、昼は人、夜は鬼となってこの野を守っていた鬼人の持っていた鏡のことをいうのだ」と答えます。 さらに「はし鷹の 野守の鏡 得てしかな 思ひ思わず よそながら見ん」という歌はこの池について詠まれたのか、と聞いてみました。すると老人は「昔この野で御狩のあったとき、御鷹を逃がしたが、この水に姿が写ったので行方が分かったからその歌が詠まれたのだ」と語ります。 山伏は まことの野守の鏡をぜひ見たいものだというと、鬼の持つ鏡を見れば恐ろしく思うであろうから この水鏡を見なさい、といいすてて老人は塚の中へ姿を消しました。

<中入>ちょうど来合わせた土地の人から、野守の鏡の名前の由来などを再び聞いていると、先の老人は野守の鬼の化身であろうと告げられます。山伏はこの奇特を喜んで塚の前で祈っていると、鬼神が鏡を持って現れ、天地四方八方を写した後、大地を踏み破って奈落の底へはいってゆきます。

見どころ

古くは「野守鏡」といいました。野守鏡に関する伝説や故事をいろいろな角度から変化をつけて舞台化した能です。

人間の怨霊が鬼になったのではなく純然たる鬼神です。「すはや地獄に帰るぞ」と大地を踏み破って奈落の底に入るのですから地獄の鬼に違いないのですが、人間に対して害意があるわけではありません。

春日野を守ってくれるのですから むしろ人間には好意的なのですが特に祝福を与えるためにやってくるような鬼でもありません。

題材が歌物語から出ているので、猛々しさだけでなく、芸術的な香気の高い能になっており、さすがに世阿弥だと思わせます。「鵺(ぬえ)」と共に鬼畜を扱いながら、異色の切能になっています。前場の尉の物語と所作には雑味があり、水鏡をする風情を大事にしたいところです。後シテは神に似た感覚で力強く演じなければなりません。「鬼のおもしろからん嗜み、厳かに花の咲かんが如しとあるように、剛々した直截簡明の動きの中に面白みを感じさせる技量が要求されます。隣忠秘抄には「これまた達者強味なくては見苦し」と記しています。

備考

現在奈良公園には所々に池水がありますが特に「野守鏡」と名付けられた旧跡はありません。

解説文:権藤芳一氏

その他の上演