過去の演目

第4回 融(とおる) クツロギ(阿紀神社)

あらすじ

東国から都へ上って来た旅僧が、六条河原院の廃墟に着いて休んでいると、田子を担った一人の老人がやって来ます。このあたりの人かと尋ねると、この所の汐汲(しおく)みだと答えます。僧は、海辺でもない土地で、汐汲みとはおかしいではないかというと、老人は、ここは昔、源融(みなもとのとおる)公が広大な邸宅を造り、庭内に陸奥(みちのく)の塩釜の致景を移したところだと答えます。そして、融公は日毎に難波(なにわ)の浦から海水を運ばせ、塩を焼かせるという豪奢な風流を楽しんだが、その後は相続する人もなく荒れ果てている事を物語り、つづいて、ここから見わたせる遠近の名所を教えます。やがて汀に立ち寄って汐を汲むかと思うと、姿は見えなくなります。

<中入>僧は、丁度来合わせた六条辺の者から融大臣の事や往時の塩焼きの様子を聞かされ、先刻の老人の話をすると、それは融公の霊の化身であろうから、弔いをするよう勧められます。その夜、僧はそこで再び奇特を見たいものだと旅寝をします。すると融大臣が貴人の姿で現れ、昔を偲んで名月の下で舞をまい、夜明けと共に消えてゆきます。

見どころ

この能には、取りたてていう事件はありません。融の美的生活の追憶を主題とし、それを旧跡を訪れた旅僧の詩的空想として描き出した閑雅な曲です。前段ではシテが汐汲みの翁の姿で現れ、夕月の光に濡れた廃墟、静まりかえった京の山々、変らぬ自然の中で、過ぎ去った昔を思い懐旧の涙に沈みます。後段は、在りし日の融の優美な姿で現れ、かつての栄華を再現し、煌々(こうこう)たる月の光の中で遊舞の袖を翻し、優雅な情趣を展開します。前後の対照も鮮やかで、しかも全篇、月のイメージで統一されている名曲です。人の世は常に流転します。一度栄えても、それが必ず衰える時があります。時は永遠の過去からやって来て、永久の未来へと去ってゆきます。人間はそれにさからうことが出来ず、ただそこに無常感を見出すだけです。廃墟――それは、ここに過去の存在した事を示す厳然たる証拠です。受け継ぐ人もないままに荒廃した六条河原院も、かつては、自然を再構成するという不敵なまでに豪奢な生活が繰りひろげられていました。すでに滅び去った美しく高貴なものへのあこがれを、年月のあまりにも速(すみ)やかな流れの中で、心ゆくまでうたい上げようとした曲です。

僧は、所の者に勧められながらも一遍の読経もせず、融の霊も回向(えこう)を頼むこともなく、〽月の都に入り給ふ」と去ってゆくのです。しばしの間、優雅な王朝世界に己れの魂を遊ばせるために作られたような能です。

備考

古名を「塩釜」といいました。観阿弥が演じて良かったという「融の大臣」という鬼の能と、この「融」との関係はよくわかっていません。

解説文:権藤芳一氏

その他の上演