過去の演目

第8回 百万(ひゃくまん)(文化会館)

あらすじ

大和国(奈良県)吉野の男が、西大寺のあたりで、一人の幼い子供を拾いますが、その子を連れて、京都嵯峨の釈迦堂の大念仏にやって来ます。そして門前の男に、何か面白い見ものはないかと尋ねると、百万という女物狂(おんなものぐるい)が面白く音頭をとるというので、それを呼び出してもらいます。やがて、門前の男の念仏にさそわれて、百万が出て来て、念仏の音頭をとって踊ります。そして仏前に進んで、我が子に逢わせてほしいと祈ります。すると先の子供は、あれこそ自分の母親だというので、男は、それとなく百万に事情を問いただします。百万は「夫に死に別れ、子供には生き別れたため、この様に思いが乱れたのだ」と語ります。男が、信心によって子供が見つかるだろうというと、百万はその慰めの言葉に力づけられて、奉納の舞をまいはじめます。百万は、我が子に逢おうと奈良から、はるばる旅して、この春の嵯峨へやって来たことを述べ、このように大念仏に集まっている大勢の人の中に、我が子はいないのだろうかと、身の上を嘆き、狂乱の状態で仏に手を合わせます。男はいよいよ間違いなく子供の母親であると思い、子供を引きあわせます。百万は、もっと早く名乗ってほしかったと恨みはしますが、仏の徳をたたえ再会を喜びます。

見どころ

観阿弥が得意とした「嵯峨の大念仏の女物狂」の能を、世阿弥が改修して今日の形に仕上げたものです。百万という女芸人の曲舞ぶりを舞台化するのが目的だったと思われます。母親と知りつつ すぐに名乗りかけない、百万も引きあわされる迄 我が子に気がつかない、といった点で、ストーリーの展開がやや不自然に思えますが、もともと女芸人の芸尽しを見せるのが主眼で、親子の再会と言う事件は副次的なのです。このあたりが近代劇とちがうところで、能としても古作の趣が見られます。子供をさがしもとめて物狂いになった、という事を何度も強調しながら、狂女物にはつきものの〈クルイ〉や〈カケリ〉がありません。〈念仏之段〉〈車之段〉〈笹之段〉二段の〈舞グセ〉さらに〈イロエ〉〈立廻り〉もあり、次々と見せ場が続くからかも知れません。詞章の上では、子をさがす百万の嘆きが切実に訴えられていますが、軽妙に節付された謡による所作を見ていると悲劇的な暗さは少なく、むしろ春の浮き立った雰囲気の中で、狂女が念仏踊に興ずる風情は明るいものさえ感じさせます。「面白づくの能」といえるでしょう。とにかくシテは一曲を通して舞い続けます。

備考

流儀によってはワキを僧にすることもあります。大念仏の中の"ハハミタ、ハハミタ"は「母なる阿弥陀」と「母見た(逢いたい)」の両方を意味するとの説があります。

解説文:権藤芳一氏

その他の上演